發光院のご案内|堺市あいぜんまつり/お砂踏み
發光院について
当院の概要
院 名 | 發光院 |
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住 所 | 〒590-0964
大阪府堺市堺区新在家町東3-2-14 |
電話番号 | 072-221-3131 |
WEBサイトURL | http://hokkoin-temple.info/ |
2017年3月の花---發光院
發光院外観
-----碩庵篠井君墓-----
發光院境内の、「碩庵篠井君墓」と記された墓石です。墓石には名前しか刻んでおらず、没年や業績に関する銘文は存在しませんが、この篠井碩庵は『堺市史』第1編「人物誌」(昭和5年刊行)に登場する人物です。
これによると、篠井碩庵は、紀州(今の和歌山県)出身の医者で、一家で堺に移住しましたが、名声もすばらしく、治療を希望するものは後を絶たず、患者の家を訪問しない日はなかったようです。また、町中で遊んでいる子どもたちも慣れ親しみ、碩庵の顔を見ると、「我が家のお医者さん」だと言って、あえて名前を呼ばなかったと言われています。
碩庵は、明和6年(1769)9月15日に、享年61歳で亡くなり、發光院に埋葬されたと記され、実際にその墓石が發光院に存在している事は大変意義深いと言えるでしょう。
-----旭地蔵尊------
由来を書いた看板によれば、もとはお蔭山にあったお地蔵さまで、山の東に安置され旭川に面していたので、旭地蔵と呼ばれていたのでしょうか。
明治の初めにこの發光院に移されたとのことです。天保の飢饉の難民救済のための大規模な公共事業で出た土砂を、積み上げできたお蔭山ですが、この説明板では「天保山」と書かれていて、同じ時期の工事で出来た大阪の天保山と呼び名が一緒だったのですね。
------前 庭------
發光院内
本殿仏像
本殿には中央にご本尊の愛染明王、
向かって左に地蔵菩薩、
右手に弘法太子像があり、
それぞれの写真が前に並べてあります。
【愛染明王】
愛染明王は「愛」という字が示すとおり「恋愛・縁結び・家庭円満」などをつかさどる仏として信仰されています。「煩悩即菩提」を唱え、愛欲という人間が捨てきれない煩悩を否定せず、愛欲に溺れる人々を浄化し、解脱に導いてくれる、ありがたく、優しい明王様です。
仏像は、愛を表す紅色に染まる一面三眼六臀(いちめんさんがんろっぴ)像で、忿怒相で蓮華座に結跏跌坐されています。頭に冠られるのは獅子で6本の手に持たれていのは、それぞれ左右に五鈷鈴(ごこれい)と五鈷杵(ごごしょ)弓と矢、握りこぶしの中の摩尼宝珠(まにほうじゅ)と未敷蓮華(みふれんげ) です。
【弘法大師像】
「弘法大師像」と「稚児大師」と呼ばれる禿(かむろ)姿で合掌する童子の大師像が並んでいます。
弘法大師は、嵯峨・惇和・諸天皇の三代にわたる天皇家からの依頼で国家安泰の修法を勤めました。
しかし、その一方で、諸国を巡って人々の苦悩を解決し、有名な満濃池を修築し、文化の恩恵を受けない大衆のために、綜芸種智院を開かれ、民衆教化を進められた。それは、貴族やお金持ちの子弟だけが学ぶところではなく、文化の恩恵を受けることができなかった大衆の教化に努めたのでした。
【地蔵菩薩】
よく見る地蔵菩薩とは違い、「地蔵菩薩半跏(はんか)像」といわれる珍しいお地蔵さんです。
結躊跌坐(けっかふざ)は両足を組み合わせますが、右足を左足の膝に上げ、左足を踏み下したお姿の堂々とした地蔵菩薩です。
行基作と伝えられていますが、地蔵菩薩半跏像が作られたのは平安時代以降とのことです。
奥の間の降魔釈迦銅像
降魔釈迦銅像(ごうましゃかどうぞう)
(シャム伝来の降魔釈迦銅像と、在りし日の美しいお姿の写真、銅像の裏側の文字の写真が展示されている)
高さ33 cm (台座12 cm)の焼け焦げた坐像は、16世紀アユタヤ朝中期にタイ南部で作られたことが、タイの芸術局の研究官によって確認されたシャム伝来の降魔釈迦銅像です。
焔に焼け爛れて、左手は溶け落ちた痛々しいお姿ですが、隣の戦前に撮られた写真(下)を見ると、神々しく美しい本来のお姿が偲ばれます。
台座の裏には「具足屋」、「相傳 天道佛」などの文字が読み取られ、天女像らしき絵も彫られています。具足屋は朱印貿易で活躍した堺の商人で、ベトナムのホイアンには鎖国により日本に戻れなくなった具足屋の一人と思われる「考文賢具足君墓」と刻まれた墓碑が発見されています。
この仏像は、堺の商人の東南アジアでの広範な活躍を示す証拠としても貴重なものです。
降魔釈迦像というのは、お釈迦様の誕生から涅槃に至る様々なお姿の中で、ブッダガヤの菩提樹の下で悟りを開くため修行中のお釈迦様に襲い掛かる悪魔の大軍を調伏(ちょうぶく)するお姿を表した仏像のことです。
その特徴は右手指を地に触れるよう下に向けていることで、これを降魔印と呼びます。右手は幸いにも無事だったので、降魔印がはっきりとご覧になれます。
※この仏像の由来は、發光院に仏具を納めていた具足屋が寄進したものとのこと。
蓮の間
日本画の創画会に所属の女流画家・谷村能子(よしこ)先生作
「蓮」
奥の間の大きな絵・・・描かれているのはハスの花で、ご住職のご友人の現代画家谷村能子(よしこ)氏が平成12年に描かれたもの。
この絵が有るので、この部屋は「蓮の間」と呼ばれる。